Petticoat Lane Memoirs -回顧録-
1993年3月に発足し、2004年まで11年間にわたりTHE YELLOW MONKEYとともに歩んだファンクラブ Petticoat Lane。バンド結成30周年を記念して特別に今回、その活動を支えた歴代スタッフの皆さんに「再集結」してもらい、当時の秘蔵エピソードなどをお訊きしました。
- Petticoat Lane 元スタッフ
参加メンバー
- 大山 葉奈:1993年3月~1997年3月 / 0号~23号を担当
前之園 郁子:1995年4月~1999年5月 / 12号~36号を担当
服部 妙子:1996年10月~2001年2月 / 21号~46号を担当
西谷 奈美:1997年9月~1999年5月 / 26号~36号を担当
柗永 香織:1998年9月~2004年12月 / 32号~記念本「Petticoat Lane 1993-2004」を担当
熊谷 さやか:2000年6月~2004年12月 / 42号~記念本「Petticoat Lane 1993-2004」を担当
- 特別ゲスト
-
- 大森 常正:当時のTHE YELLOW MONKEYの所属事務所、 有限会社BOWINMAN MUSIC(現 株式会社BAJ)代表取締役。現在も株式会社TYMS PROJECT取締役としてバンドに携わる。
- 田中 修 :THE YELLOW MONKEYの元マネージャー。Petticoat Lane会報などでもたびたび名前が登場し、ファンにも親しまれた。
- インタビュー
- 小牧 栞奈:TYMS PROJECT / BELIEVER.スタッフ
Petticoat Lane黎明期
まず始めに、ファンクラブ「Petticoat Lane」はどのような経緯で発足したのでしょうか。
- 大山
- 当時、事務所(BOWINMAN MUSIC)の発行する「BOWINMAN NEWSLETTER」というニュースレターがライヴに行った人などに届いていました。1992年の後半ごろ、そこに「“ファンクラブのようなもの”を発足します、携わってくれる方をファンの皆さんから募集します」という告知があって、翌1993年の3月に最初のスタッフ4人が決まり、私はその中のひとりでした。
“ファンクラブのようなもの”(笑)。ということは、当初は活動内容として会報の製作がメインと決まっていたわけでもなかったんですね。
- 大山
- 「会報を作ります」という募集であれば、もっと「ちゃんと作れる人」が集められたのではないかと思います(笑)。正式発足ギリギリまでずっと“ファンクラブのようなもの”と、必ず“のようなもの”をつけて呼ばれていて……何か新しいことをやりたかったのかな。
- 大森
- 元々はメンバーが、「当たり前のファンクラブはどうかなあ」と言っていてね。
- 田中
- いわゆる企業的な、ビジネス的なものにはしたくないという感じでしたね。当時メンバーはみんな、ファンの人たちが作るクラブこそがファンクラブだ、と考えていました。
- 大山
- そういう考え方のもとで発足したので、のちに会員の方が増え、事務所の方と作業分担するようになっても、Petticoat Laneスタッフは会員の中からの公募で決まり、完全にボランティアとして携わっていました。
では、“~のようなもの”に「Petticoat Lane」という名前がついた経緯は?
- 大山
- 1993年の3月に初めての顔合わせがあって、まず会報準備号として0号(1993年5月発行)を出すことが決まって、でも名前がない、という状況でした。LOVINさん、当時はまだ吉井さんというよりLOVINさんと呼ぶことが主流だったのであえてそう呼びますが、LOVINさんが名前を付けてくださることになって、しばらく待っていたらある日事務所にFAXが届いて、そこに「ファンクラブの名前はPetticoat Laneです。意味は岡場所です。文句は吉井まで」と書かれていました(笑)。
その後、ある方がレタリングシートを使って「Petticoat Lane」とバンド名の組み合わせのパターンをいくつか作ってくださって、その中から決まったのがこのロゴです。その時作られたデザインの原本を、長い間ずっと使い続けました。
▲1993年5月発行Petticoat Lane 0号(準備号)表紙。
その後このロゴは、会報誌をはじめ、会員証キーホルダーやグッズなど、さまざまなところで使われるようになりました。一度見ると忘れない印象的なデザインですよね。
- 大山
- 当時はこんなに象徴的なものになっていくとは想像できていませんでしたね。そういえばこのデザインはラブホテルのネオンをイメージしたんですよね、大森さん?
- 大森
- そうだっけ? 覚えてないなあ。まあ、岡場所だしね(笑)。
はじめての会報製作
そんな0号(準備号)を経て、2ヶ月後の1993年7月には会報第1号がついに発行されました。当時は具体的に、どのような工程で製作されていたのですか?
- 大山
- この頃は、ワープロで作った原稿をもとに切り貼りした印刷版下を作り、印刷屋さんに持ち込んで印刷してもらい、事務所で折って束ねて、封筒に宛名シールと切手を貼り、会報を入れて、スティックのりで封緘し、郵便ポストに入れに行く……というのが全て手作業でした。事務所の近くのポストに全部入りきらなくて、渋谷中の郵便ポストに投函して歩いたこともありましたね。
- 前之園
- 会報作りは、その手探りの頃に基本となるやり方ができあがって、それがその後、少しずつ形を変えながら代々受け継がれていったという感じです。
- 熊谷
- 私は2000年にスタッフになりましたが、その頃も初期に確立された方法や考え方がそのままきれいに受け継がれていました。
- 大山
- 面白いエピソードとしては、当時、文具や備品の買い出しに行く時、領収書を「Petticoat Lane」でお願いしてもなかなか正しく書いてもらえなくて、「ペチコート霊園」と書かれたことがありました(笑)。
- 前之園
- お墓になっちゃった。
- 大山
- 岡場所なんだけどって(笑)。本当はPetticoatも「ペティコート」なんですけど、もう「チじゃなくてティなんです」とか言っている場合でもなくて(笑)。その後は正しい表記を紙に書いて持っていくようになりました。
▲会報製作マニュアル。
少しずつバージョンアップされていく様子がわかる。
この会報第1号からさっそく、各メンバーがコーナーを持っています。このコーナーはどのようにして決まったのですか?
- 大山
- メンバーの皆さんにアンケートをとったと記憶しています。HEESEYさんは長年アルバイトをされていたアメ横を紹介するコーナーというのがご本人から希望があって即決。LOVINさんも「4コマ漫画」とすぐに一言返ってきていましたね。EMMAさんとANNIEさんは、スタッフ側からも案を出したりして決まっていったような感じでした。その後、ずっと内容が変わらず続いたメンバー、路線変更したメンバーとさまざまでした。
▲初期の各コーナータイトル。
メンバー4人はどのように原稿を書いていたのでしょうか。
- 大山
- HEESEYさんはこちらが用意した原稿用紙にビシーッと手書きでした。多分シャープペンシルで書かれていて、結構消しゴム跡も多かったので、考え考え書いてくださっていたのだと思います。アメ横の地図も、おそらく定規などを使われて、緻密に描かれていました。緻密すぎて縮小をかけすぎると見えなくなってしまうくらいでした(笑)。
LOVINさんは紙やペンは特にこちらで用意していなくて、普通の白い紙に描かれたものが届いていました。ある日唐突にトレイの中に置いてあるんですよ。マネージャーの田中さんが届けてくださるんですが、クリアファイルに入れるとかメモを付けるとかがないので(笑)、色々な書類の中から4コマ漫画が急に出てきてびっくり、みたいな感じでした。
EMMAさんはアンケート用紙に回答する形での手書き原稿形式でした。読みやすい字を書かれるのですが、原稿中に、ひとつかふたつ、この字を書いている途中で最後まで書くのを忘れてしまったのかしら、みたいな少し不思議な文字が混ざっていましたね(笑)。そういうのは会報で再現できなくて、当時の会員の方には申し訳なかったです。
ANNIEさんは当時大学8年生で、公私ともにとても大変だったはずですが、いつも一生懸命取り組んでくださっていました。当時からワープロを使われていて、原稿もワープロで作られていました。でもそれがFAXで届く(笑)。今では考えられないことですが、1993年頃というのは、日常でデータのやりとりということが全くない時代でした。
進化を遂げるPetticoat Lane
発行当初はモノクロの手折り製本だった会報ですが、会員数が増えるにつれて、製本されるようになり、表紙がカラーになり、デザインが毎回華やかに変化するように……と進化を遂げていきます。特に印象的なターニングポイントなどはありましたか?
- 大山
- 印象的な……。作っている側は常に必死だったんですよね(笑)。
- 前之園
- 毎号それぞれ全力でしたね。ようやく終わったと思ったら次の号がすぐに待っていましたし(笑)。
- 大山
- 私がいた4年間(1993年〜97年)の中では、デザイナーさんに入っていただけるようになった15号(1995年12月発行)あたりが一番大きな変化でした。
デザイン未経験者ばかりのスタッフだったので、いつも大森さんにダメ出しをされていて(笑)。でもどうすれば良くなるのかわからず、ずっとフラストレーションがありました。そこにデザイナーの大西(秀明)さんが入られたことで、カッコよく整えていただけるようになって。
- 前之園
- 12号(1995年5月発行)の「表紙がモノクロからカラーになった」とはまた少し違う達成感というか、前進した感がありましたね。
- 西谷
- 1995年当時は私はまだ1会員でしたが、ますます表紙を見るのが楽しみになった記憶があります(笑)。
- 大山
- 使用する写真や文章は私たちから提出していましたが、それがこうなって出てくるか!という驚きが毎回ありました。
- 前之園
- 頭の中にあった理想を伝えると現実になる喜び。ワープロだけでは出せないクオリティですよね。
- 大山
- THE YELLOW MONKEYはあんなにカッコいいのに、会報はワープロの切り貼りでなんだかなぁ……(笑)、というギャップがなくなって、やっとバンドの魅力にふさわしいものになったという思いでした。
▲さまざまなデザインがあったPetticoat Lane表紙。左上が15号。
お誕生日号なども毎回インパクトがありました。
- 服部
- お誕生日号は、私たちもアイデアを出し、メンバーの皆さんからもリクエストをいただいて……とやっているうちに、HEESEYさんがあれをやったんだから次のANNIEさんはこんな企画をやって、さらに次のLOVINさんは……とどんどん盛り上がっていきましたね(笑)。
- 西谷
- メンバーのお誕生日が4、6、10、12の偶数月で分かれているのも、偶然とはいえ会報製作にはちょうどよかったですね(笑)。
- 服部
- 号を進めるうちに企画用の写真をスタジオで撮り下ろしたりもできるようになって、嬉しかった記憶があります。
メンバー連載秘話
バンドの活動も次第に忙しくなっていく中で、スケジュールの苦労などもあったのでは。
- 大山
- リリースやキャンペーン、ライヴの数に比例して届ける情報も多くなっていったので、会報製作のスピード感もどんどん早まる傾向がありましたね。
- 前之園
- その中でメンバーの皆さんも会報のために時間を捻出するのは大変だったと思います。
- 服部
- 毎回、とにかくスタッフだけで作業が完結できるコーナーを先行して作っておいて、あとはメンバーの皆さんからの原稿が来ればOK! というように製作スケジュールも工夫していました。
なるほど。ちなみに、メンバーからの原稿ですが……締切はどうでしたか?
- 服部
- メンバーによりますね(笑)。
提出が早いのは……
- 大山
- HEESEYさん(即答)。
- 服部
- LOVINさんも早かったですね。
- 大山
- HEESEYさんはだいたい、締切の前の日には届いてました。
- 服部
- コーナーのコンセプトがはっきりしていたし、書きやすかったのかもしれないですね。
- 大山
- 最初はメンバーの皆さんに原稿を書いていただいていましたが、ご本人の希望などもあってEMMAさんは途中からインタビュー形式に切り換わりました。
- 西谷
- EMMAさんご本人のスケジュールが忙しくてインタビューがギリギリだったりすると、書き起こして文章をまとめてご本人に確認していただいて……というのをダッシュでやっていた覚えがあります。ずいぶん鍛えられました(笑)。
- 大森
- その頃、田中はマネージャーとして現場とファンクラブの間に挟まれて大変だったんじゃない?(笑)
- 田中
- いや、自分はPetticoat Laneの実作業にはそこまで深く関わっていなかったので全然大変ではなかったですよ。メンバーに締切を伝えて、もらった原稿を皆さんに渡すというぐらいかなあ。何百回となく書き直しているANNIEさんに、「はーい、そろそろやめてくださいねー」とか言っていたぐらい(笑)。
- 前之園
- 当時のANNIEさんは毎回、最終的に掲載される原稿の1.5〜2倍くらいの文章を最初の段階では書かれていたんです。そこから規定の文字量に合わせて、ご自身で推敲作業もされていて。しかも、その原稿にさらに削っていいところに印をつけてくださっている時もありました。もちろん削りませんでしたけど……。
▲連載コーナーの一部。
皆さんの、目一杯に詰め込もう!という気迫は紙面からも伝わってきます(笑)。
- 大山
- そう、私たちは私たちの都合では絶対に削りたくないから、必死でしたよ。
- 前之園
- 本人に削っていいよと言われても絶対に削らない(笑)。
- 西谷
- HEESEYさんもたくさん書いてくださっていましたね。
- 大山
- 『HUSKY STREET』(当時のHEESEYさんの会報コーナー名)はもう、とにかく字を小さくして詰めるしかなかった!
- 西谷
- EMMAさんの連載も、1つのテーマに対してEMMAさんのこだわりがいくつもあって、たくさん話してくださるので、文字量的には安心ではありつつ、どうページに収めるかは毎回頭を使いました。
- 前之園
- ANNIEさんはパソコンで原稿を書かれている姿が映像などでも残っていて印象が強いと思うんですが、実は手書きで原稿を書かれていた時期もありました。出身大学のレポート用紙で、それがFAXで届いていたこともあったんですよ。
会報の裏側で
製作の中で、Petticoat Laneスタッフの皆さんと事務所のスタッフで意見が分かれるようなことはあったりしたのでしょうか。いわゆる「マネージャーNG」のような(笑)。
- 大山
- 企画で意見が分かれるようなことはそんなになかったような……。
- 柗永
- そうですね。私たちの考えた企画を尊重していただいていました。
- 服部
- でも、使う写真についてはあったかもしれないですね(笑)。
- 大山
- 私たちはファンなので、これが載ったらきっと会員の皆さんも喜ぶだろうな、という選び方をするんですが、マネージメントチームの皆さんは「そこは見せなくていい」と判断される、みたいなことは何度かありました。レコーディング中のヒゲモジャの写真が全部ボツになるとか(笑)。残念でしたが、仕方ないなと思っていました。
- 服部
- その分、撮り下ろしをしていただける写真などは、企画の段階から絶対最高のものにしよう!と燃えました(笑)。
会報ではファンの方の投稿コーナーも毎回とても盛り上がっていたのが印象的です。会員の皆さんから届いたお便りを、どのように選んでいたのですか?
- 大山
- 当初はそんなにたくさんのお便りはなかったので、次号で担当している企画にいいかな、と思うものをそれぞれがピックアップしていました。少しずつコーナーが確立していくと、コーナー宛てでお便りがいただけるようになって。皆さん手書きで、切手を貼って、手間をかけて送ってくださっていました。皆さんがTHE YELLOW MONKEYを愛している、その気持ちはスタッフ自身が誰よりもわかるので、会報に載せる・載せないとは別に、一通一通大切にお預かりする感覚でした。
- 服部
- 会報への感想なども含め、いただいたハガキやお手紙は、全て読んでいましたね。
- 柗永
- お年玉企画(新春のメンバー私物プレゼント)の時などは、会議室の長机がいっぱいに埋め尽くされるぐらい、どっさり届いたりもして(笑)。
- 熊谷
- とはいえ会報は2ヶ月毎の発行なので、お手紙が到着した頃にはもう次の号の製作が佳境だったりするんですよね。もうほんの少し早く届いていればこれも載せたかった……!というようなこともよくありました。
- 柗永
- 皆さんの生の声をできるだけ変えずにそのまま載せたいし、送ってくださったものはなるべくたくさん掲載したいし、しかも熱が冷めないうちに少しでも早く届けたい。締切との戦いでした(笑)。
人気があったり、反響の大きかった企画などは。
- 大山
- ファンクラブ旅行は毎回反響が大きかったと思います。メンバーの皆さんと海外に行けるというのは、なかなか貴重な経験ですよね。第1回が1995年でパリとロンドン、第2回が1996年のロンドンで……。
- 服部
- 第3回が1997年にロンドンとハル、これはミックロンソン・メモリアルがメインでした。第4回が1998年にロンドンです。
- 大山
- 私は第2回に参加しましたが、ロンドンのライヴハウスで公演もありましたし、メンバーの皆さんと参加者全員でディナーという日もありましたし、集合写真やメンバー4人と参加者1人ひとりがポラロイドで一緒に写真を撮れるというサービスもあって。
- 前之園
- 第3回と第4回は、前の2回に比べるとライヴメインの行程でした。
- 服部
- 第3回の時は、ミックロンソン・メモリアルイベントが中心で、現地のアーティストとの共演も見どころでした。それから、第2回でメンバーの皆さんがフラッシュで目が辛くなられたということで、個人の記念撮影はなくなったんですよ。
- 西谷
- 第4回はフェニックスフェスティバルでのライヴがメインの予定でしたが、イベントが中止になり、急遽ロンドンからバスで3時間ほどの距離にあるノッティンガムに移動して、そこでのライヴになりました。会員向けのトークイベントがありましたが、集合写真はなかったような気がします。
- 前之園
- 色々と慌ただしい旅だったんです。でもメンバーの皆さんと外国で時を共にするというのは素敵なことで、どの回の旅行に参加された方たちもきっと今でも大切な思い出にされているのではないかと思います。
ファンクラブ限定ライヴ、ファンミーティングなどもありましたよね。
- 大山
- 「jaguar hard pain 1944-1994」が出たときに全国各地でファンクラブミーティングを開催した時のことで……各地域のレコード会社の会議室が会場で、東京は大会議室のようなところに何百人という会員が集まったんですが、東京から離れると十数人の会員が吉井さんを囲む、みたいなこともありました。
近すぎて緊張して、ぎこちない雰囲気の中で「悲しきASIAN BOY」のビデオを一緒にフルで観ました。当時はインターネットもないし、ミュージックビデオが公開されてもTVで流れなければ観られなかったので、それだけでも当時のファンにとっては貴重な機会だったかもしれません。
私が同席した福岡のファンクラブミーティングでは、吉井さんが事前アンケートを元に参加者に話を振ってくださったり、会議室の壁に貼られたポスター全部にサインを入れて参加者全員にプレゼントしてくださったり、とてもアットホームなイベントでした。
1995年3月には、渋谷のON AIRで初めてのファンクラブ限定ライヴを開催して、前半がライヴ、後半がゲーム大会のようなイベントも行いました。
Petticoat LaneからBELIEVER.へ
ちなみに皆さんは今も変わらずTHE YELLOW MONKEYのファンで、現在のファンクラブ「BELIEVER.」の会員でもいらっしゃると伺ったのですが。当時のスタッフから見たBELIEVER.は、どのような印象ですか?
- 服部
- 先日ちょうどTYMS CHALLENGEの新しい回(Vol.11:メンバー4人が今後チャレンジしたいお題を決めた回)を見たのですが、なるほど、こうやって企画は選ばれたりボツになったりしていたんだなと(笑)。
- 大山
- Petticoat Laneが発足した頃は、まだバンドもあまりメディアに出ていなかったこともあって、メンバーそれぞれの個性やキャラクターを知る機会が求められていました。ですから当時の会報では、コーナーなどを通して各メンバーを掘り下げることが多かったと思います。今は逆に、ファンクラブだからこそ4人が揃って楽しそうにされている姿が見られて、メンバーの皆さんが一緒に何かに取り組まれているときに出てくる1人ひとりの魅力がいいなと思います。動画というのも今の時代だからこそできることですしね。
- 服部
- 紙面だと4人のうち1人が話しているときに他の3人は何をしているかが伝わりにくいものですが、映像だと、こうやって聞いてるんだ、こんなリアクションなんだ、などと見られるのでそれも楽しいですよね。
- 前之園
- 毎回とても楽しみにしています。
それでは最後に、30周年を迎えるTHE YELLOW MONKEYのこれからに向けて、一言ありましたら。
- 大山
- まずはドームツアーのチケットが当たるといいなあ。
- 全員
- ほんとに!(笑)
- 大山
- 私たちは昔も今もファンであることには変わりはないので、1ファンとしてこれからの活動も心から応援しています!
※このインタビューは2019年8月中旬に実施しました。
Petticoat Lane “Topics”
- 1993年3月
- Petticoat Lane発足
- 1993年5月
- 会報0号(準備号)発行、以降2ヶ月に1回の頻度で会報が発行される
- 1993年7月
- 会報1号発行。会員数は639人
- 1994年2月〜3月
- 初めてのファンクラブミーティングを開催
- 1995年3月
- 渋谷ON AIR(当時)にて初めてのファンクラブ限定ライヴを開催
- 1995年4月
- 第1回ファンクラブ旅行(パリ、ロンドン)
- 1995年5月
- 会報12号発行。表紙がカラー写真に
- 1995年12月
- 会報15号発行。以降、会報デザイン・レイアウトにデザイナー大西氏が関与
- 1996年5月
- 第2回ファンクラブ旅行(ロンドン)
- 1997年8月
- 第3回ファンクラブ旅行(ロンドン、ハル)
- 1998年7月
- 第4回ファンクラブ旅行(ロンドン)
- 1999年12月29日
- 日本武道館にてファンクラブ会員限定ライヴ「We are Petticoat Laner de 公演」開催
- 2001年2月
- 最後となる会報46号を発行し、バンドとともに活動を休止
- 2004年12月24日
- 「Petticoat Lane 1993-2004」を発行。会員数は73,996人
- 2004年12月28日
- Petticoat Lane 解散
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