THE YELLOW MONKEYとのあれこれを振り返る-大森常正氏 × 倉茂得光氏 特別対談-

バンド結成30周年を迎えるにあたり、THE YELLOW MONKEYのこれまでをよく知るお二人に、あれこれと思い出していただきました。
  • 大森 常正株式会社BAJ代表取締役社長。株式会社TYMS PROJECT取締役。THE YELLOW MONKEYのメジャーデビューにあたり、所属事務所となる有限会社BOWINMAN MUSIC(現株式会社BAJ)を立ち上げ、解散までの苦楽を共にしてきた人物。“大森さん”“社長”などとメンバーの会話に登場することも多い。
  • 倉茂 得光株式会社ソーゴー東京・株式会社ソーゴー大阪 代表取締役。株式会社TYMS PROJECT取締役。デビューアルバムツアーからTHE YELLOW MONKEYのコンサート制作に携わり、ステージを見守り続けてきた人物。伝説のPUNCH DRUNKARDツアーでは、ツアーマネージャーとして全公演に帯同。
インタビュー
大山 葉奈Petticoat Lane 初代スタッフ

運命的な出会い

大森さんはメジャーデビューから解散までのTHE YELLOW MONKEYの所属事務所BOWINMAN MUSICの社長、倉茂さんはソーゴー東京でTHE YELLOW MONKEYの担当イベントプロモーターとしてコンサート企画・制作をずっとされていたという経歴ですよね。

倉茂
20歳からこの世界で働き始めて33年になります。僕はTHE YELLOW MONKEYを最初から知っていたわけでもなくて、ソーゴー東京も最初からTHE YELLOW MONKEYを担当していたわけではないんですよ。メジャーデビューした年に初めて観たんです。ファーストシングルが出る前の1992年4月のデビューコンベンションライヴ(渋谷のクラブクアトロ)に上司に連れていかれて。
大森
色々なイベンターの会社の人たちが観に来てくれた業界お披露目ライヴのような意味合いもあったんだけど、観に来た人たち、誰もTHE YELLOW MONKEYと一緒にやろうって言ってくれなかったの(笑)。「ちょっと難しそうだね」って。だけど、当時の倉ちゃんの上司のYさんが「うちがやるよ。金のニオイがする」って低い声で言って(笑)。
倉茂
俺はその時は20代前半で、当時の日本武道館級アーティストのコンサートをやっと仕切れるようになったくらいだったんだけど、まだTHE YELLOW MONKEYのニオイはわからなかった(笑)。ただね、クアトロのステージって結構高さがあって、そこにあの身長の高いメンバー達がロンドンブーツを履いて、厚化粧で、デカイ音。もうインパクトが強くて呆気にとられて、関西の言葉でいうと「なんじゃこりゃあ」という印象でしたよ。詞とか聴く余裕もなかったよ(笑)。後から聴いても、よくわからなかったけど(笑)。
大森
わかりづらい歌詞が多かったからね。
倉茂
それで5月にシングルが出て、6月にアルバムが出て、そのツアーから担当するようになって、東京公演の会場が渋谷の当時のON AIRで。ライヴハウスなのにさ、大森さんがさ、「美術セットを組んでくれ」って言うんですよ。そんなことやったことがなかったから、試行錯誤で。覚えてます?
大森
言った覚えはないけど、トラス(注:トラスシステムの柱)が4本立ってたよね。
倉茂
トラスを立てて、電飾を付けたんですよ。あの時はチケットは売り切れたんだっけ?
大森
売り切れなかったと思う。
倉茂
当時のON AIRのキャパシティが1,000人くらいだったんだけど……。
大森
お客さんは500人くらいだったんじゃない。

確かにギュウギュウという感じや後ろから押されるようなこともなく、整然と並んで観た記憶があります。最初から満員御礼・順風満帆というわけではなかったのですね。ところで、大森さんは何故THE YELLOW MONKEYと一緒に歩むことを選ばれたのですか。

大森
自分はお金のニオイではなくて(キリッ)。もともと中学・高校生くらいの時に、グラムロックが好きだったの。それで同学年が360人くらいいるんだけど、T-REXとかデヴィッド・ボウイを好きな人は俺とタケウチとイドガワっていうヤツしかいないくらい、マイナーだったの(笑)。それで、THE YELLOW MONKEYを初めて観て聴いた時に、自分の好きな感じだなと。で、多分これは誰にもわからないだろう、俺くらいしかやる人いないんじゃないかと思ったの。だって360人中3人しか好きじゃなかったくらいだから。それに、当時THE YELLOW MONKEYは化粧をしていることでビジュアル系にまとめられてしまうこともあって、でも本当にビジュアル系としてマネジメントされたりしたらうまくいかないだろうし、わかる俺がやろうかなと思って。

一番大変だったのはPUNCH DRUNKARD、
でも細かく思い出せない

そうやってそれぞれTHE YELLOW MONKEYと出会ったお二人と、あまり時系列などにはこだわらずに、この30年間で印象的なことを振り返っていきたいのですが……。

倉茂
よくメンバーにも言うことなんですけどね。ものすごく大変だったことって、もう覚えてないんだよね。話したくないとか思い出したくないとかではなくて、思い出せない。その時に完全燃焼してしまったというか。だからPUNCH DRUNKARDツアーの頃のことをはっきり覚えてないんですよ。

でも、覚えていないと言いながら、やっぱり最初にPUNCH DRUNKARDツアーの話が出ますね。

大森
PUNCH DRUNKARDツアーなくしてこのバンドは語れないでしょう。でも自分も1998年から2001年頃のことは、記憶がないというか、ちゃんと思い出せない。

113本っていうのは最初から決まっていた数字だったのですか。

大森
最初は80本とかそれくらいの話で始まったはずだけど……。
倉茂
1年まるごとツアーをする、ホールは全都道府県に行こう、後半はアリーナをやって……と組み合わせていった結果、合計113本というスケジュールになったんですよ。
しかも、そのツアーの間に、海外レコーディング(アメリカ)とかイギリスでのライヴも入っていて……メンバーはほぼ休みなしだった。こんなことをやったバンドは他にいないですよ。
大森
ライヴ1本も長かったしね。アリーナになってからは長いときは3時間半くらいだったし。『SUCK OF LIFE』だけで35分とか(笑)。

THE YELLOW MONKEYにとってのこのツアーの意味や解釈は、ツアー中なりツアー後なりに出てきたものですよね。ただ、ツアーが始まった当初は、これから何をする、まだやっていないことは何、という流れの中で出てきた純粋な新しい挑戦に過ぎなくて、それ以上の意味は特に持っていなかったと思うのですが。

大森
いつも「まだ他の人やバンドがやっていないことは何だろう」って考えてね。レコーディングしている時やライヴの打ち上げなんかでメンバーと、ある時は冗談交じりにステージに象を出そうとか(笑)、ある時は真剣に、あれこれ話す中で、113本ツアーという挑戦の形にまとまったわけ。他にも、色々なアイディアの中からまとまっていったものだよね。
……ただ、ハードルを上げすぎたのかもしれないけどね。やっぱりミュージシャンは、アルバムを出してツアーをしてこそ、というのがあって、それを極める中で、ちょっと本数が多すぎたのかな。だけどそれができちゃうタフなメンバーと、タフなスタッフだったんですよ。
倉茂
THE YELLOW MONKEYがあの時期に、あれだけの経験をしたことは本当に意味があると思うよ。
大森
そう。再集結以降にあの経験は糧となって活きていると思っていて。何でもかんでも120%で臨むだけがベストなやり方ではないんだということを、メンバーは皆知っているからね。

初の日本武道館、本当は……

違う時代の話をしましょうか。初めての日本武道館、1995年4月です。大森さん、当初は『jaguar hard pain』 のツアーのファイナルは前年の12月に日本武道館で……と考えられていたでしょう。

大森
よく知ってるね。

当時、BOWINMAN MUSICにワープロが1台だけあって、そのワープロで大森さんは企画書を作ったりされて、Petticoat Laneのスタッフは同じワープロで会報や会員名簿を作るわけです。そうすると、大森さんの使った後に、たまに企画書がそのままに残っていることがあって。それを当時のスタッフと一緒に見て、「ツアーファイナル、日本武道館って書いてあるよ」って。そして、しばらくして「中野サンプラザになったね」というような会話をこっそりしていました。

大森
『jaguar hard pain』のツアーを1年かけてやって、年末に日本武道館の日の丸の下でファイナルをするシナリオは、吉井が一番思い描いていたんだよね。だけど、俺と倉ちゃんで何度も話し合って、今のTHE YELLOW MONKEYで日本武道館は満員にできないだろうという結論になったんだよね。「無理にやって半分しかお客さんの入っていない日本武道館はカッコ悪いから、中野サンプラザ2DAYSでどう?」って倉ちゃんと俺でメンバーに話して……。
倉茂
吉井はがっかりするし、HEESEYは怒るし、EMMAもANNIEもショックを受けて。そんなことがあっての、翌年の4月の日本武道館だったと。
倉茂
即完売になってね。

12月に「満員にできない」という見込みだったのが、4か月後には即完売できるバンドになっていたわけですね。

大森
アルバム『smile』とシングル『Love Communication』の力でしょう。

当時、前年は毎日『jaguar hard pain 1944-1994』を聴く生活をしていたので、『smile』を聴く毎日になって、なんとなく軽やかな気持ちに切り替わった印象があります。

倉茂
『jaguar hard pain』は重いアルバムだったからね。コンサート制作をしている側の自分でさえ、1年を通じて「これ一体どうなるんだろう?」って思ってたし(笑)。
大森
日本武道館の前後からだんだんテレビとかラジオに出るようになって、そういうメディアの力でまた多くの人に知られて、人気が出てきたんだよね。NHKの「ポップジャム」とか、テレビ朝日の「ミュージックステーション」とか。吉井はオールナイトニッポンのパーソナリティにもなったしね。テレビやラジオでかけやすい曲があるということは、聴いてもらう・選んでもらうには重要なことだったんだろうね。

初のホール、日本青年館(1993年6月)

大森
これはよく覚えてる。
倉茂
俺もよく覚えてる。当時観た人たちは皆よく覚えてるんじゃない?
大森
日本青年館(当時)でライヴをする前は、新宿の日清パワーステーション(当時)でよくライヴをしていたでしょ。パワステのキャパシティが830人で、日本青年館が1,200人くらいだから、ちょっとの差なの。
倉茂
パワステの次でホールというと、渋谷公会堂(当時)とか東京厚生年金会館(当時)とか2,000人レベルのキャパシティの場所に普通はいくんだけど、俺も大森さんも慎重だから。しっかりステップを踏んでいこうって。
大森
でもこれが満員にならなかったらどうしようって胃が痛くなっちゃって。
倉茂
でも5分で売り切れたでしょう。

当時オフィシャルファンクラブ(Petticoat Lane)がいよいよ発足することになって、まだファンクラブ名も決まっていない状態ながら、早期入会特典が日本青年館ライヴの先行予約でした。ファンクラブに入っているといいことがある、という最初でもありました。

倉茂
そして、実際のライヴはあの演出でしょ。
大森
吉井が、映画の『サンタサングレ 聖なる血』の映像をライヴ前に流したいって、リハーサルスタジオにビデオテープを持ってきたんだけど、ビデオテープだとステージ前の幕に投影するサイズにできないから無理……と頭を抱えていたら、吉祥寺のバウスシアター(当時)の知り合いが「うちで上映していたからフィルムがありますよ」って貸してくれることになって、35㎜のフィルムで上映できたんだよね。
倉茂
あのすごい映像が流れて、お母さんの腕が切られてギャーッとなったところでバーンと幕が落ちたら、裸の女性が2人、麻袋を被って縛られているわけですよ。もう、皆ドン引きだったでしょ(笑)。サーーーッと引いて、シーーーンとしてたよね。

倉茂さんがTHE YELLOW MONKEYを初めて観た時に「なんじゃこりゃあ」と思われたように、あまりに衝撃的な展開でどう反応していいかわからなくなった人が多かったかもしれません。

倉茂
あの裸の女性達は大森さんが探したんだよね。
大森
そうそう、ボディがムチムチでバチーンと決まっていてステージの上に立ってくれる人いないですかね~って知り合いに聞いて回って、紹介してもらったの。
倉茂
大森さんがパンツを2枚持ってきてね(笑)。このパンツをはいてくれって。
大森
そうだったかな? だって、普通のパンツはかれたら困るから(笑)。

大森さんがご自分で買いに行かれたんですか?

大森
覚えてない……。

ものすごく大変だったことは覚えていない……(笑)

大森
吉井が買ってきたんじゃないかな……(←かなりいい加減な言い方)。
倉茂
同じ演出をね、1996年12月の日本武道館のメカラ ウロコ・7の時にやりたいって言われたのよ。数十人の規模で、トップレスで。だけどトップレスができなかったんですよ。日本武道館からダメだって言われて、ここは国の名前を掲げてあって、武道をするところだと怒られて。でもメンバーはどうしてできないの? って。両方の言い分がわかるだけに、辛かったですよ。相当の話し合いをした記憶がある。
大森
ほかの会場だったらできたかもしれないけどね。でも日本武道館じゃなきゃいけなかったんだよね。

あれだけバンドが大きくなってからも色々手探りが続いていたのですね。PUNCH DRUNKARDツアーも含めて、常に試行錯誤があったということですね。

倉茂
そうそう。THE YELLOW MONKEYはね、そうやって着実に確実にちょっとずつだけど、大きくなっていったんですよね。
大森
ライヴハウスから、ホールからアリーナに行って、球場に行って。ファンの皆も一緒に大きな会場に行って、そういう会場でのライヴの楽しみ方を知って、一緒に大きくなっていった感があるよね。
倉茂
ライヴハウスはもちろん、地方の会場の小ホール、中ホール、大ホールというようなところもやってね。全国的にやってないところはほんとにないんじゃないかっていうくらい。一緒に確実に大きくなったよね。全国ツアーをやるアーティストで、小ホールや中ホールからしっかり回っていく人たちは少ないからね。

そして倉茂さんも20代のぽやぽやだったところから、着実にこんなに偉くなられて。

倉茂
(笑)今はこんな偉そうなことを言ってるけれども、当時はもう必死のパッチでしたから。

必死のパッチ(笑)。関西人(笑)。(注:倉茂さんは関西出身です。)

倉茂
俺も大森さんも、会場のキャパシティとバンドの状態を見ながら、そこは着実にやってましたよ。赤字を出すわけにはいかないしね。

採算度外視、FIX THE SICKS(1997年)

「赤字」という言葉が出ましたが、赤字が出たライヴやツアーはあったのでしょうか。

大森
あるある。日本青年館も赤字だったんじゃない?
倉茂
とんとんくらいだったかなぁ。色々な経費を皆さんからのチケット代でなんとかまかなうことはできて、借金はないけど、メンバーへのギャラはない、というような。メンバーにギャラが払えなかったという意味では赤字だったのかな。一番の大赤字はFIX THE SICKSのツアー。あれはもう採算度外視で。
大森
あのツアーは、キューブっていうテレビをステージセットで組んだじゃない? あれはね、某有名ロックミュージシャンが縦に6、横に9で54面でやってたの。で、それを超えるためには、縦に9で81面ほしいと思ったんだけど、テレビの重さで縦は6つまでしか組めなくて7以上だと潰れちゃうっていうわけ。それで、困っていたら舞台監督のOさんからのアイディアで、上の3つは上から吊るせばいいということになった。そうしたら、ものすごいお金がかかったのね(笑)。でも、ほかの人がやったことを同じようにやっても仕方ないんだから、それでやろう!と。当時は今みたいな映像技術設備がなかったから。それをひとつひとつコンサート毎に運んで、組んで、バラして、を繰り返してね。
倉茂
トラックだけでも相当な台数があった。
大森
億の赤字が出ましたよ。

その赤字は解消されたのですか? それを返すために113本ツアーになったわけではないですよね?(笑)

大森
違う違う、そういうことはない(笑)。そういうライヴをやって、皆がバンドに関心を持ってくれたり、話題になったりして、CDが売れたり、次のライヴに来てくれたりということでバンドが大きくなれたから、そういう長い目では採算は取れたから、誰かが重い借金を背負ったということはなかったの。
ただ、その辺はあまり慎重ではなくて。『SICKS』がいいアルバムだったから、メンバーもスタッフも「これはイケる」っていう勢いがあって、採算は考えずにやっちゃえ、という勢いでした。
倉茂
当時、映像を使ったロックバンドでは、かなり先駆的なことだったよね。
大森
で、普通のアーティストはそういう画面にアーティストの顔を映すんだけど、THE YELLOW MONKEYは舞台演出として違う画を出すわけ。
倉茂
そうするとお客さんが映像に目を持っていかれて、メンバーが霞んじゃって。それで大森さんがメンバーに「パワーが足りない、映像に負けるパフォーマンスをするな」とか説教しちゃったんだけど……。
大森
今考えると、メンバーが悪いんじゃなくて、多分あれは画面が明るすぎただけなんだよね(笑)。俺も伝え方が不器用で……事実だけを言えばよかったんだよね。「画面が明るくて、メンバーが霞んで見える」って。それで画面の明るさを調整すればよかったの。なのに、それをメンバーにぶつけちゃって。知識がなかったんだね。
倉茂
でもそれを言われてメンバーも内心色々あったと思うけど、そこで負けずに立ち向かってくるタフなところがあって、結果的にはパフォーマンスがどんどんいいものになっていったんだけどね。

再集結したTHE YELLOW MONKEYへ

再集結が決まってからのことを少し聞かせてください。2016年の1月に再集結が発表される前に、様々な準備を水面下で進めていらっしゃったと思うのですが……。

大森
2016年の5月からのツアーだったから、会場は2015年のうちにブッキングしてたんでしょう。
倉茂
会場を確保するために、各地のイベンターにアーティスト名を伝えて、会場をおさえてもらわないといけないんだけど、THE YELLOW MONKEYって言ったり書いたりできないからね。あの時、俺は韓流アイドルやアーティストの公演を担当していたから、申し訳ないけど会場確保は“韓流”っていうことにしてもらって。
大森
「え、また来日するんですか?」とか言われながら。規模的にはあやしまれずに済んでね。
倉茂
それで、世間への発表が2016年の1月だったけど、2015年の年末ぎりぎりに全国のイベンターを収集して会議をやって、そこで初めてイベンターにも本当のことを明かせたんですよ。

そういう地道な準備があって、あの発表でファンの皆がビッグニュースとして喜ぶことができたわけですね。ところで、お二人はこの再集結についてどんなお気持ちで関わられてきたのでしょう。

倉茂
解散したバンドが、もう1回全員揃って、もう1回アルバム出して、ツアーやって、ということになるのは感慨深いものがあったよね。
大森
『ALRIGHT』の歌詞で「奇跡」だっていうのがあるでしょ。再集結できたことが奇跡だと思ったし、再集結については本当に「いいね」って思ったね。そしてライヴをするようになって、ライヴの後に「今日はすごくよかったな」ってファンの皆に思ってもらえる何かを毎回毎回届けられていると思うので、すごく良いことをやっていると思う。そういう良いことをね、昔みたいな頻度じゃなくてもいいから、3年に1回くらいのペースでも構わないから、続けていってほしいなと思うね。
自分はメンバーより少し年上なんだけど、演奏はしないけど、年齢的に色々なことが出てくるわけですよ。70歳になる自分のことを考えながら生きるようになったりしている。だからメンバーも、これからそういう年齢的なものにも向き合うことが増えてくると思うけど、ローリングストーンズみたいにずっと続けていってもらえたらいいよね。
倉茂
カッコよく年を重ねていってほしいなと思いますね。

THE YELLOW MONKEYで一番好きな曲

最後に……あまり尋ねられることがないのではないかと思うのですが、THE YELLOW MONKEYで一番好きな曲を教えてください。

大森
事前に質問をもらっていたから、ちょっと考えていたんだけど、今は『SO YOUNG』かな。歌詞がすごく好き、自分の人生と重なるなあと感じることがあるし、いつまでも子供というか青春というか、それは自分もメンバーもそうだと思うんだけど、昔から変わらないなぁという心情にリンクするなぁと思って。あと、PUNCH DRUNKARDツアーの最終日のアンコール最後の曲、やっとこのツアーが終わるんだな~っていう感じを象徴している曲のような気がして。倉茂さんは?
倉茂
(好きな曲名が10曲以上書かれているリストを取り出す)

1曲だけでお願いします。

倉茂
えーーー!そうすると『アバンギャルドで行こうよ』かなぁ。僕はアルバムを聴くというより、ライヴで曲を聴くことがほとんどなんだけど、まず『東京ブギウギ』から始まって、本イントロに入るところとかね、好きなんですよ。常に前向きにさせてくれるし、聴くと元気になるよね。